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早稲田の文人たち 第7回 尾崎一雄【中篇】 松本八郎

ドメニカの経営者S女は未亡人で、妹とともに穴八幡脇で喫茶店を開業したのは、尾崎一雄によると1925(大正14)年かその翌年であった。
 ドメニカは、場所がら早大の学生や教師が多くたむろして、『街』同人の田畑修一郎、寺崎浩、火野葦平(玉井雅夫)や、西条八十、谷崎精二、日夏耿之介らの教授連のほか、市ケ谷・薬王寺に住んでいた加能作次郎や、作次郎の博文館時代の部下であった岡田三郎らの早大卒業生、さらには一雄と同郷(小田原)の川崎長太郎なども出入りしたという。

 一雄より2年後輩の早大国文科一年生が始めた同人誌『街』は、26(大正15)年4月に創刊され、ドメニカが彼らの根城となっていた。一雄は『街』の同人ではなかったが、この後輩たちとの付き合いから、一雄のドメニカ通いがはじまった。 後に流行作家となる丹羽文雄は、その最初の作品「秋」を、『街』に寄稿している。文雄は同人たちとは同級生であったが、彼らとの交際はなく、これは一雄の推輓によって掲載されたものであった。それ以前、一雄は高田町雑司ヶ谷の下宿近くにあったビリヤード・豊川亭で、文雄と知り合い、それがきっかけで、一雄が文雄の作品を『街』に仲立ちすることになる。
 この撞球場には、雑司ヶ谷の菊池寛邸に寄宿していた新感覚派の論客、片岡鉄兵も通っていた。「片岡氏の撞球は謙遜でなく下手だった」と、一雄は『あの日この日』に書いているが、後に、同人誌『新正統派』に一雄の短篇が掲載された時、鉄兵はこの作品に難癖をつけたため、二人の間で激しい「やり合い」が起こる。

 ドメニカのS女と結婚した一雄であったが、『新正統派』『文芸都市』などに作品発表の場はあるものの同人誌では収入はなく、ヒモ生活で日常は荒み、創作そのものにも打ち込めないでいた。そうした状況を打開すべく、29(昭和4)年12月に、高等学院時代から私淑する志賀直哉を頼って、一雄は単身、奈良に赴く。八カ月ほど同地で過し、翌年に帰京してのち、彼はS女との離婚を決意する。
 収入のない一雄は、その年の暮れから、東京市役所(現・都庁)に勤める学院時代の友人の伝手で、牛込区役所(今なら新宿区役所か?)税務課の臨時雇に採用される。数カ月勤務する内、志賀直哉の好意によって改造社版『日本文学全集』の一冊である『志賀直哉全集』の校正の仕事を廻して貰うが、校了とともに、また職なし生活に戻ってしまった。

 その後は友人の下宿などを転々としていたが、そうした頃、早大の後輩である白井弘という人物が、「早稲田グランドの上側に沿つて、戸塚一丁目から、豊橋と面影橋の中間あたりの川つぷちへ下る狭い坂道の途中」に、麻雀倶楽部を開くというので、一雄はその助っ人として懇請され、同時に、白井家に転がり込む。
 そしてこの時、白井の妻君の女学校の同級生であった山原松枝と出会うこととなる。

(この項つづく)

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プロフィール
松本八郎(まつもと・はちろう)
1942年、大阪生まれ。早稲田在住40年。早稲田にて出版社EDIを主宰。忘れら
れた作家たちをこつこつと掘り起こす。「EDI叢書」「サンパン」などを発行
して話題に。「sumus」の同人でもある。
EDI ホームページ http://www.edi-net.com/
by sedoro | 2005-10-15 15:56 | 早稲田の文人たち
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