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ぬいだ靴下はどこへ ~ハルミン・ダイアリー~ 浅生ハルミン

7月のある日 夏と肉食

 午後、小田急線某駅でSちゃんと待ち合わせ、F夫妻の家へバーベキューをしに行く。住宅街の奥まったところにそこだけ木に囲まれている古い二階建ての家。その庭で肉を焼いて食べる。あとでMさんも来る。
 Fさんの旦那さんが炭火をおこし、バーベキューセットの網の上に羊肉と牛肉と野菜をのせてゆき、焼けた肉を私らに取り分けてくれる。肉を配る男の人をみるとにわかに私は原始人に先祖がえりして、岩穴の中で今日の獲物を男原始人から分け与えられているようなような気持ちになって、子供の頃、登校前にテレビで毎朝観ていた『はじめ人間ギャートルズ』の影響力をいま
さらながらに思い知らせられるのだった。そんな夏の午後。足下には蚊取り線香。お腹がはちきれそうなくらい肉を食べた。幸せです。

 夏の暑い盛りに肉を食すのが私はとても好きです。沖縄の牧志公設市場の二階の食堂で食べた牛肉とたまねぎを炒めた料理は、んがんがと肉を噛み砕いて飲み込んだあと、炒めたたまねぎを口に入れるとしゃりしゃりとした野菜のうまみがひろがった。汗をかいてよれっとした身体にぐぐっと生きる力がよみがえる。肉はすばらしい。
 数年前の夏休み、知人の別荘でバーベキューをしたときのこと。まだ十分に焼けていなかった高級霜降り肉を再び網に戻し、そろそろ焼けるかなーとお皿を空けて待ち構えていると、他の人のお皿には肉が戻っていったのに、どういうわけか私の肉だけ戻ってこなかった。私の肉はどこ……?眼の前には空っぽのお皿。自分だけ舞踏会に連れていってもらえず掃除を命じられた灰かぶり姫のような気持ちに襲われ、泣いてしまった。私のお皿にだけ肉がのっていないのが本当に悲しかった。そのことを思い出すと、悲しさが今も完璧に、完全なまでによみがえってきてまた泣いてしまう。本当に何度でも泣ける。私の悲しみの回路は牛の胃みたいになっているのかもしれない。すみません。

 こんなことを書いていますが、私は子供の頃肉が大嫌いだった。お正月、松阪牛の本場にある祖母の家へ行くとすき焼き専用の卓とふつうじゃない鉄の鍋がふつうにあった。そこに松阪牛がふるまわれるのですが、肉を食べられない私はそれゆえ毎年祖母の家に行くのが恐ろしかった。食べたふりをして、舌の下に肉を隠し、ごちそうさまをしたあと自分の手さげ鞄の中にペペ
ッと吐き出して、ずいぶん長く保存したりしていた。吐き出した肉をどこに始末したらいいかわからなかったからです。どこに捨てても必ず見つかって叱られると思ったからです。この愚行は今も顔から火がでるくらいに恥ずかしい。
 肉のことで冷静さを失うのは大人の女としてはしたないですわ、と自分でも思うので、おいしそうな肉を目の前にしてもしれっとしている気持ちの強さを持ちたい、と来年は七夕の札に書こうと思います。


7月のある日 合羽橋でセドリ

 女四人で合羽橋。鍋釜を売る店を見てそぞろ歩く。店の中のものすべてに埃がかぶっていそうな陶磁器屋を見つけて入る。白いお手塩が1枚75円、70年代から売れ残っていそうなコーヒー皿が1枚50円、ダンスク風の大皿が3枚3千円!安い。このお皿が欲しい。しかし3枚もの大皿を買ってこれに何かのせるだろうか、と思うとのせない気がしてきたので買わなかった。
でもあきらめもつかないので、人目につかない下のほうに隠して店を出た。
 以前来たときにはなかったような輸入調理器具を売る店もできていた。ル・クルーゼの鍋、安い。うちにあるのは丸い16センチの白。オーバル型のふたまわり大きい鍋を買おうかなあ、と思ったけれどいつそんな大量の煮物をするのか、しないな、と思ってやめた。
 家に帰りつく。いつもの通り、朝出て来た時のまんまの部屋。いつか読もうと思って買った本が読まないまんま散らかっている。古本屋さんで思いのほか安い本を発見し、眼を輝かせて勢い良く買った時のことが思い出された。
 鍋は買わなくてよかったのだとふたたび思った。


7月のある日 道で本を拾えなかった私

 夜。スーパーの帰り道。高速道路の拡張で立ち退きになって人の住まない住宅街のごみ集積所に、ひさしぶりに本の束が捨ててあった。いちばん上にのっかっているのは黒い箱にオレンジ色の印に細いゴチックの白抜き文字、これは鹿島出版会のシリーズだわ。デザインの歴史とかって背の文字がある。この1冊があるということは一緒に縛られた本もそれなりの関連図書である可能性大。他の本の背を見ようと頭を傾けたとき、うしろから来た人がそばを通り過ぎていった。縛ったひもをゆるめて本を引っこ抜いている自分の姿はあの人から見たらどんなだろう、と想像してみたらいたたまれなくなって、すみやかに帰途についた。道に落ちている本を拾えなくなった自分が悲しい。ついに私はヤキがまわったのだろうか。


7月のある日 アメヤさんを救助だなんておこがましい?

ここからは長いひとり言だと思って読んでください。

 いま、六本木のギャラリー、P-houseで飴屋法水さんhttp://www.phouse-w
eb.com/main/archives/000009.htmlの個展が開催中。近日中に私も行かねば
と思っているのですが、すでに観に行った方たちの感想をインターネットで読んだ。
 アメヤさんは24日間の会期中、小さな空気穴しかあいてない真っ暗な箱の中に流動食と水を持ち込んでずーっと入ったまま出て来ない。外から箱をゴンゴンとノックすると、中からアメヤさんがノックを返し、それでアメヤさんが生きていると確認できる。行った人は「アメヤさんがノックを返してくれてよかった」ということを感想に書いていたりする。アメヤさんはこの5年間個展をしていなくてその間は「動物堂」というペットショップを営んでいた。外国から輸入されて箱に入って運ばれてくる動物みたいに、アメヤさんも箱の中でじーっとしているのだろうか。そのような動物は、アメヤさんのこの展覧会と関係があるのだろうか。私はまだその展覧会を見ていないの
に、アメヤさんのことが気になってしょうがない。

 行った人はみな口を揃えて「スゴイ!」と書いている。心配もしている。けれど展覧会の感想を書いてしまえるのはアメヤさんの箱がギャラリーにあるからで、これがもしどこかの家のガレージ等での出来事だったらすぐさま救助しないといけない一大事です。それを、美術という前提で行ったから、真っ暗な箱に入ったまんまの人を観に行ってまた帰って来れてしまうのだろ
うか。もしそうだとしたら人のものの見方というのはえらく几帳面なものだ。いくら美術といえども箱に入った人は生身の人間で、美術かそうでないか関係なしにお腹は減るし暗闇にずっといる気持ちって計り知れないし、もしかして衰弱しきってしまうかも。必ず箱から出て来られるとも限らないのです。そうしてその箱を目の前にした人は、観る前とその後ではあきらかに心情が
変わってしまうようなのです。それは自分が日常的に生きていることをどんなふうに思うのかということに関わっているような気がするのだけど…。

 アメヤさんは、展覧会の当日まで準備状況をインターネットの日記に書いていて、「あともう××日で当日」とか「前夜…」とか書いてあるのが、いま読み返してみるとその時間の迫る意味がずしーんと響きます。これを“オープニングまでの作業の締切り”だと思っていた私は自分がすごく俗物に思えて仕方ありませんでした。
………ここまで全部、展覧会を観に行く前の私の妄想です。事実が違うところがあると思います。展覧会を観たらもっとぐるぐる思わせられるだろうなあ。自分はこれこのように生きていられてありがとうって思うだろうか。それよりも生きててごめんなさいと思うような予感がする。それでも私は変わらず生活してゆくのだけれど……。もう!アメヤさんはいったいなんてことをするんですか!!でも生きててごめんなさいと思うのはいまのところ動物界ではヒトだけかもしれないし…。ギャラリーに行ったあとで、あまりの勘違いにこの文章がすごく恥ずかしいものになっているだろうなあと思いつつ書きました。まとまりのない文章で大変失礼いたしました。

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プロフィール
浅生ハルミン(あさお・はるみん)
イラストレーター。『彷書月刊』にて「ハルミン&ナリコの読書クラブ」を連載中。著書に『私は猫ストーカー』(洋泉社)がある。
浅生ハルミンのブログ 「『私は猫ストーカー』passage」公開中!
http://kikitodd.exblog.jp/
by sedoro | 2006-01-25 14:00 | ぬいだ靴下はどこへ 
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