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早稲田で読む・早稲田で飲む 第9回 親戚のウチみたいな飲み屋  南陀楼綾繁

 昔の早稲田のコトを知るときに、もっとも役に立つのが、昨年出た『早稲田の学生街60’S-70’S』(まぼろしチャンネル/ラグタイム)という小冊子だ。1960年代から70年代にかけて早稲田近辺にあった店について、写真と証言で構成しているのだが、アリガタイのは、大隈通り、グランド坂通り、西門通りなどの「通り」に当時どんな店が並んでいたかが略図で示されているトコロだ。著者と編集スタッフが早大生だった時期が対象なので、1980年代に関してはまるで不親切なのだが、それでも知っている店のルーツがたどれるので重宝している。

 たとえば、グランド坂通りにある〈キッチンミキ〉のヨコを入ったところにある〈澤田屋〉という麻雀屋。老舗の蕎麦屋〈金城庵〉の近くにある。ちょっと驚くような立派な門の奥にある、木造の家なのだが、「学生同士で雀荘に行く」という習慣がほとんどなかったぼくの世代にとっては、前世紀の遺物のように見えた。じっさい、ココに入ったことがあるという先輩や友人のハナシは聞かない。ココが開店したのが1949年で、青島幸男が来ていた(らしい)というのを、さっきの本で知った。

 普通の学生が通らない横丁にある〈澤田屋〉の前を、ぼくはほとんど毎週通っていた。目的はその隣の〈いこい〉という飲み屋だった。さきの地図(1968年頃)を見ると、〈澤田屋〉のちょっと先に〈志乃ぶ〉(ここは「割烹」的なムードで学生には敷居が高かった)が載っているが、〈いこい〉は出ていない。だとすると、1970年代にできたのだろうか? しかし、あの古さはハンパじゃなかった。

 入り口の戸をガラッと開けると、せいぜい10人分の靴が置けるだけの土間があって、その先はすぐに座敷だ。カウンターも椅子席もない。4、5人のグループが三組入ったらもう満員になる。左側が厨房で、じいさんとばあさんがツマミをつくり、娘さんらしきおばさんがそれを運ぶ。奥のほうは、どうも住居として使っているらしかった。座敷がまたどこもかしこも薄汚れていて、全体的には「親戚の家に遊びに行った」感が濃厚だった。

 〈いこい〉は、ぼくが一年生の秋から入った「民俗学研究会」(通称「俗研」)というサークルがよく使っていた店だった。「俗研」では、いくつかの班に分かれ、週に一回、少人数の研究会をやっていた。ぼくが属していたのは「民間信仰」という班で、指導教官もいないサークルなので専門的なムードはまるでなかったが、それでも自分なりに文献を調べたり、レジュメをまとめたりした経験が、のちに編集者となったときにとても役に立った。それが終るといつもこの店に流れ、12時前まで飲んだ。アルコールはビンビールと安酒の熱燗(「日本酒ってマズイ」という固定観念を植えつけてくれた)、ツマミは焼き鳥、串カツ、にら玉、鳥のから揚げ、冷やしトマトなど。うま
くもナンともないけど、数人でひとり1000円出し合えばけっこう食べられて、てきめんに酔っ払える。その場でヨコになり、気がつくと寝たまま吐いてるヤツもいる(ぼくもやったことがある)。おばさんに怒られることもしばしばあった。

 大学卒業後、〈いこい〉には何度か飲みに行ったけど、学生という立場が外れるとおばさんにどう接していいか判らず、どことなく居心地の悪い気分を味わった。しかし、それから10年以上経った。いまでも〈いこい〉はあるようだから、近いうちに行ってみようと思っている。久しぶりに、あそこのにら玉を食ってみたい。でも、あの日本酒だけはカンベンしてくれ。

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プロフィール
南陀楼綾繁(なんだろう・あやしげ)
1967年、出雲市生。1986-90年、早稲田大学第一文学部に在学。現在、ライター・編集者。著書に『ナンダロウアヤシゲな日々』(無明舎出版)、編著に「チェコのマッチラベル」(ピエブックス)がある。

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ナンダロウアヤシゲな日々  http://d.hatena.ne.jp/kawasusu/
by sedoro | 2005-10-16 01:15 | 早稲田で読む・早稲田で飲む
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